第7回に引き続き、ボン大学の歴史の部分です。ボン大学創設当初の時代の趨勢について、およびその中でのボン大学教授陣の役割について。
【原文】
In die ersten Jahre fielen auch die zutiefst illiberalen, undemokratischen Karlsbader Beschlüsse des Deutschen Bundes. In seltener Einigkeit galt fast überall in Deutschland die "Demagogenverfolgung". Die Restauration wehrte sich gegen revolutionäre Ideen an den Universitäten, gegen freiheitlich-nationale Romantik unter Professoren und Studenten. Für die neue Bonner Universität war dieser frühe McCarthyismus eine schwere Bürde. Einige bekannte und angesehene Wissenschaftler lehnten ihre Rufe ab, unter ihnen etwa die Gebrüder Grimm oder der Philosoph Friedrich von Schelling. Mit Ernst Moritz Arndt musste bald auch der prominenteste unter den ersten Bonner Professoren seinen Lehrstuhl wieder räumen. Wenn Wissenschaftsfreiheit nur von Gnaden der Obrigkeit toleriert ist, dann kann sie auch wieder einkassiert werden – eine Lehre, die wir uns heute manchmal wieder ins Gedächtnis rufen müssen. Was damals schon richtig war, das gilt heute umso mehr: Wer der Wissenschaft die Freiheit nimmt, wer "Experten" verächtlich macht und Wissenschaftsfeindlichkeit zum Stilmittel erhebt, der spielt mit dem Feuer und gefährdet das Gelingen von Zukunft. Die Freiheit der Wissenschaft, sie darf nie nur geliehen sein, sie muss garantiert bleiben!
【解説】
Karlsbader Beschlüsse des Deutschen Bundes カールスバート決議。1819年にドイツ連邦を構成する主要10ヶ国が集まって出された決議。ウィーン体制の中心人物メッテルニヒの主導で進められ、ブルシェンシャフト(Burschenschaft)などが推進していた自由主義、ナショナリズム運動の抑圧を図る内容であった(ウィキペディアより)
die "Demagogenverfolgung" デマゴーグ迫害。カールスバート決議に従いブルシェンシャフトのナショナリズム的革命思想に対する保守的な反応で、1819年にプロイセンの Zensuredikt 検閲勅令により大学教授の Zensurfreiheit 検閲からの自由が認められなくなったことが、第一波の最たるものだった。この迫害の動きは1827~28年頃に鎮静し、第一波終了となる。
die Restauration 王政復古
der McCarthyismus マッカーシズム。1950年代前半の米国で見られたヒステリックな反共・赤狩り運動とその思想。ここでいう dieser frühe McCarthyismus とは、本来のマッカーシズムの先駆けのようなプロイセンの反共・赤狩り運動を指しています。
einkassiert werden 取り上げられる
zum Stilmittel erhebt 字義通りには「様式上の手段に持ち上げる」。深く考えずに議論のための議論をするためのフレーズとして反知性・反学問主義を掲げることを指している。
【翻訳】
大学創立当初は、自由民主主義とはかけ離れたドイツ連邦のカールスバート決議がなされたころです。ほぼドイツ中で珍しく一致して「デマゴーグ排斥」が行われていたのです。王政復古の思想は、大学における革命思想や教授や学生の間に広まっていた自由主義的・民族主義的ロマンチズムと対立していました。創立したばかりのボン大学にとってこの早期のマッカーシズムは大きな障害となりました。何人かの著名な学者はボン大学への招聘を断りました。その中にはたとえばグリム兄弟や哲学者のフリートリヒ・フォン・シェリングが居ました。エルンスト=モーリッツ・アルントを始めとする最初のボン大学の著名な教授たちも間もなく講座を去らざるを得なくなりました。学問の自由が支配者の恩寵によってのみ許容される場合、それはまた認められなくなることもあるという教訓は、今日でも時に思い起こす必要があります。当時すでに正しかったことは、今日でもなお有効です。学問から自由を奪う者、「専門家」を侮辱し、反学問を1つの様式の手段にまで高める者は、「火遊び」をしており、未来の成功を危険にさらします。学問の自由、それは決して借りものであってはなりません!それは保証されなければならないのです!
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