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AutorenbildMikako Hayashi-Husel

【学問の自由】シュタインマイヤー独大統領ボン大学創立200周年記念式典式辞を原文で読もう(3)


第2回は、シュタインマイヤー大統領がボン大学の200周年式典の祝辞の部分でした。今回はボン大学の歴史の部分です。

【原文】

Wir feiern dieses Jubiläum im ehemaligen Plenarsaal der Bonner Bundesrepublik, mit vielen Freunden aus Europa und der Welt, an einem Ort der deutschen Demokratie. Die Geschichte der Demokratie in unserem Land ist vielfach mit der Geschichte der Universität Bonn verwoben. Von diesem langen Weg will ich heute sprechen.


Wie gesagt, die Startbedingungen in Bonn waren gut, auch für frische Ideen. Die neue Universität profitierte vom hohen Ansehen, das wissenschaftliche Gelehrsamkeit, Naturforschung und literarisches Geistesleben am Anfang des 19. Jahrhunderts genossen. Sie hatte den Wind des Wandels in den Segeln, der in gleich doppelter Hinsicht durch das Rheinland pfiff. Zum einen über die preußisch-humboldt‘schen Vorstellungen von moderner Universität, zum anderen aus dem Nachlass der kurkölnischen Akademie zu Bonn von 1777 – auch sie ein Kind der Aufklärung, wenn auch ein kurzlebiges. Oder um es mit Schlegel zu sagen: "Das ächte Neue keimt nur aus dem Alten, Vergangenheit muss unsre Zukunft gründen."


Das klingt hin- und hergerissen, und das war es wohl auch. Die aufklärerischen und liberalen, zugleich romantischen und nationalen Gedanken des Vormärz machten sich am preußischen Rhein breit, im Schatten einer strengen Obrigkeit. Heinrich Heine lernte viel bei seinem Lehrer Schlegel und schrieb später, als die schlesischen Weber zum Aufstand riefen, "dem König der Reichen" einen "Fluch" an den Hals. Der Bonner Alumnus und Burschenschaftler Hoffmann von Fallersleben saß 1841 auf Britisch-Helgoland und träumte von Einigkeit und Recht und Freiheit. Der Bonner Kunsthistoriker Gottfried Kinkel gründete den Demokratischen Verein, mit konservativem Pendant im "Konstitutionellen Bürgerverein" von Johann Wilhelm Loebell. Der Bonner Studentenanführer Carl Schurz, später Nordstaatengeneral im amerikanischen Bürgerkrieg, ließ die Stadt am Rhein sogar kurzerhand zum "Vor-Ort" aller deutschen Studentenschaften wählen. Und im Frankfurter Paulskirchenparlament saßen 1848 allein sieben Bonner Professoren. Kurzum: Diese Universität hatte beträchtlichen Anteil am ersten, wenn auch flüchtigen Versuch eines einigen und demokratischen Deutschlands.


【解説】

Bonner Bundesrepublik 「ボン共和国」。ボンを首都とする旧西ドイツ、ドイツ連邦共和国

vom hohen Ansehen, das wissenschaftliche Gelehrsamkeit, Naturforschung und literarisches Geistesleben am Anfang des 19. Jahrhunderts genossen 少々わかりずらい関係文ですが、hohes Ansehen が genossen (genießen の過去形3人称複数)の目的語

der in gleich doppelter Hinsicht durch das Rheinland pfiff der が何を受けているのか分かりにくいですが、pfiff (pfeifen の過去形3人称単数)「笛のような音を出す」「ヒューヒュー鳴る」ことができるのは der Wind だけです。

den Wind des Wandels in den Segeln 風と Segel 帆は密接に関係しているので、比喩表現にもよく使われます。ライン川が重要な船舶交通路であることと、帆船の船出に不可欠な帆に受ける風、ボン大学の「新しい船出」をイメージして練り上げられている表現です。

die preußisch-humboldt‘schen Vorstellungen von moderner Universität 現代的な大学についてのプロイセン的、フンボルト的思想(キリスト教の教義に影響を受けない自由な学問を目指す)

die kurkölnische Akademie zu Bonn ケルン司教区アカデミー・ボン。1777年に神学、法学、薬学、博物学の4学部で設立され、1786年にヨーゼフ2世皇帝によってLizenziatという修士号(Licentia docendi=教員資格)および博士号を付与する権利が与えられ、大学に昇格。1798年、ナポレオンがライン川左岸を占領したため廃校。

Das ächte Neue = Das echte Neue

der Vormärz 三月前期、三月革命以前の時代(1815頃-48頃)

schrieb später, ... "dem König der Reichen" einen "Fluch" an den Hals ハインリヒ・ハイネの詩「Die schlesischen Weber」からの一部引用。jemandem etwas an den Hals schreiben というのは定型の言い回しではありませんが、jemandem etwas an den Hals hängen 「何かを誰かの首にかける=人に(負担・責任・罪などを)負わせる」という慣用句の変形と考えられるので、「金持ちたちの王に呪いをかけた」というような意味となります。

Hoffmann von Fallersleben 本名 August Heinrich Hoffmann(1798~1874年)、Fallersleben生まれ。1819年からボン大学で教鞭をとる。旧ボン・ブルシェンシャフト会員(Alte Bonner Burschenschaft)。

Konstitutioneller Bürgerverein 立憲市民クラブ。Johann Wilhelm Loebellが創設。立憲君主制を是とする思想のため、民主主義クラブの対極に位置する。

Johann Wilhelm Loebell 1786~1863。1829年にボン大学の臨時教授、1831年に同大正規教授となり、歴史学を教えた。1848~49年、ボン大学学長。

Carl Schurz 1829~1908。1847年からボン大学で文献学と歴史を研究。ブルシェンシャフト・フラコニアに属し、1848年にはフラコニアのスポークスマンとなり、またGottfried Kinkelが創設した民主主義学生クラブの代表に就任し、機関誌「Bonner Zeitung」を発行。1848年革命に失敗してアメリカ合衆国に移住、南北戦争時のアメリカ陸軍将軍。1869年に上院議員に。

Frankfurter Paulskirchenparlament 1848~49年に行われたフランクフルト国民議会(Frankfurter Nationalversammlung)の別名。Paulskirche パウロ教会で議事が行われたことによる。下の地図のような群雄割拠状態を脱して、民主主義的な統一ドイツを目指した。



【翻訳】

私たちはこの200周年記念を旧西ドイツの元本会議場で、ヨーロッパおよび世界の多くの友人たちと祝います。このドイツの民主主義を象徴する場所で。我が国の民主主義の歴史は、ボン大学の歴史と何重にも絡み合っています。この長い道のりについて、本日はお話しさせていただきます。 すでに申し上げましたようにボン大学のスタート条件は良好でした。斬新なアイデアにも良い条件でした。新大学は、高い名声の恩恵で、学術的な博識、自然研究、文学的精神生活を19世紀初頭に堪能しました。新大学は二重の意味で順風満帆にライン地域で船出したのです。1つには現代の大学の在り方についてのプロイセンのフンボルト的考え方(訳注:キリスト教の教義に影響を受けない自由な学問を目指す)、1つには1777年創立のケルン司教区アカデミー・ボンの遺産です。後者は短命ではありましたが、やはり啓蒙思想の落とし子でした。あるいは、シュレーゲルの言葉で言えば、「真に新しいものは古いものからしか芽吹かない。過去は我々の未来の礎とならなければならない。」 これはどっちつかずのように聞こえますし、たぶんその通りだったのでしょう。啓蒙的、リベラル的であると同時にロマンティックで民族主義的な三月革命以前の時代(1815~48年頃)の思想がプロイセン支配下のライン地方で、厳しい政府の監視の裏で広がっていきました。ハインリヒ・ハイネは、師であるシュレーゲルの元で多くを学び、後にシュレージエンの職工たちが蜂起を叫んだ時に、「金持ちどもの王」に「呪い」をかける詩を書きました(1844年の「シュレージエンの職工たち」という詩。日本語訳はこちら)。

ボン大学出身で、学生結社連盟ブルシェンシャフトの一員であったホフマン・フォン・ファラースレーベンは、1841年に英領ヘルゴラントに滞在しており、統一と公正と自由を夢見ていました。ボンの芸術史家、ゴットフリート・キンケルは、民主主義クラブを創立しました。ヨハン・ヴィルヘルム・レーベルの「立憲市民クラブ」内の保守的な対立項を成す存在もありました。

ボン大学学生指導者のカール・シュルツは、後にアメリカ南北戦争時の北部将軍となりましたが、このライン川沿いの街を全ドイツ学生の「本拠地」に選ばせてしまいました。1848年のフランクフルトのパウル教会議会では、ボン大学教授が7人も出席していました。端的に言うと、本学は、民主的な統一ドイツ創立のための、短かったとはいえ、最初の試みにおいて、相当の貢献をしたのです。

【翻訳終了】


【コメント】

シュタインマイヤー大統領のスピーチのこの部分は歴史的背景が分からないと、修飾関係が不明確で読み取りにくく、したがって、非常に翻訳しづらい部分です。知識の羅列をしているだけのような印象があります。聴衆がボン大学の「錚々たるお歴々」だったので、教養のあるところを見せたいという心理が働いたのかもしれませんね。






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