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AutorenbildMikako Hayashi-Husel

【学問の自由】シュタインマイヤー独大統領ボン大学創立200周年記念式典式辞を原文で読もう(10)


第9回に引き続き、ボン大学の歴史の部分です。ボン大学創立100周年記念式典と、トーマス・マンについて言及しています。

【原文】

Vor 100 Jahren wiederum fiel die große Feier aus. Kriegsbedingt gab es die runde Geburtstagsfeier erst ein Jahr später, 1919, in der jungen demokratischen Republik, und die Stimmung war höchstens gedämpft zuversichtlich: "Der Krieg hat unser Volk vor gewaltige, nie geahnte Aufgaben gestellt", so der Rektor Ernst Zitelmann zur 100-Jahr-Feier, und weiter: "der Friede wird uns wohl noch schwierigere stellen." Im gleichen Jahr beschloss die Universität, Thomas Mann die Ehrendoktorwürde anzutragen – einem Deutschen übrigens, dessen Weg zur Demokratie ähnlich verschlungen war wie der seines Landes. Noch zu Kriegsbeginn 1914 schrieb jener Thomas Mann: "Fort mit dem landfremden und abstoßenden Schlagwort demokratisch! Nie wird der mechanisch-demokratische Staat des Westens Heimatrecht bei uns erlangen." Sätze, über die er später selbst erschrak, als er mit seiner Familie vor den Nazis ins freiheitlich-demokratische Exil des Westens floh. Daran konnte ich erst kürzlich in Pacific Palisades erinnern, in Thomas Manns "Weißem Haus des Exils", wo er, begeistert von Franklin D. Roosevelt, endgültig zum leidenschaftlichen Kämpfer für eine freiheitliche und wehrhafte Demokratie wurde.


【解説】

die große Feier, die runde Geburtstagsfeier, 100-Jahr-Feier どれも創立100周年記念式典を指しています

der Friede wird uns wohl noch schwierigere stellen ... noch schwierigere のあとに [Aufgaben] が省略されています。

einem Deutschen = Tomas Mann

wie der seines Landes = wie der Weg seines Landes

der mechanisch-demokratische Staat 「機械的・民主主義的国家」。トーマス・マンが何をもって「機械的」と表現したのかは、本人が後で考えを180度転換したこともあり、不明です。

Heimatrecht 市民権

Pacific Palisades パシフィックパリセイズ。カリフォルニア州ロスアンゼルス西部の街。トーマス・マンの亡命先で、彼の家族が住んだ家が残っており、現在ドイツ文化センター、Thomas Mann Houseとなっています。

Thomas Mann House, Pacific Palisades

eine freiheitliche und wehrhafte DemokratieFreiheitliche demokratische Grundordnung 自由民主主義的基本体制」とは、ドイツの民主主義における最高の価値を指し、この価値を脅かすものに対して、ドイツ憲法裁判所の判断によれば、ドイツ国家は中立的な態度を取らずに防衛する立場を取るため、「streitbare, wehrhafte Demokratie 戦闘的防衛的民主主義」であると定義されています。これは、ナチス独裁政権が当時の民主主義的手続きに則って誕生した史実に対する反省から生まれた原則で、民主主義によって民主主義制度が廃止されることを防止する重要な意味を持っています。


【翻訳】

創立100周年を記念する大きな式典は、またもや中止になりました。戦争のために、創立100周年記念式典は1年遅れの1919年に行われました。誕生したばかりの民主主義共和国[訳注:1918年11月9日にドイツ帝国が倒され、ドイツ史上初の民主主義共和国の樹立が宣言された。いわゆるワイマール共和国]における当時の雰囲気は、せいぜいささやかな希望がある程度でした。100周年記念式典において、当時の学長エルンスト・ツィテルマンはこう言いました。「戦争は、私たち国民をこれまで想像もつかなかったような巨大な課題を突き付けました。平和は私たちにさらに難しい課題を与えることになるでしょう。」同年、ボン大学は、トーマス・マンに名誉博士号を授与することを決定しました。ちなみに、彼の民主主義に至る道のりは、祖国のそれと同じように紆余曲折しています。1914年の第一次世界大戦開戦時、トーマス・マンはまだ次のようなことを書いていました。「外来の忌むべきスローガン『民主主義』を捨てよ!西側の機械的・民主主義的国家は、我が国では永遠に市民権を得ることはない。」これは、後に彼が家族とともにナチスから逃れ、西側の自由民主主義国であるアメリカへ亡命した際、彼自身が自分で驚いたという文です。そのことを私はつい最近になって、パシフィックパリセイズにあるトーマス・マンの「亡命先の白い家」で思い出す機会がありました。そこで彼はフランクリン・D・ルーズベルト米大統領(当時)に熱狂し、自衛する自由主義的民主主義のために戦う情熱的な活動家に変貌したのでした。











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